大判例

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東京高等裁判所 昭和47年(う)3491号 判決 1973年5月31日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人浅岡輝彦名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官斎藤巌名義の答弁書に各記載のとおりであるから、いずれもこれを引用し、弁護人の控訴趣意に対し当裁判所はつぎのとおり判断する。

控訴趣意第一は、本件公訴事実が「被告人はHが満一八年に満たない児童であることを知りながら」と確定的故意をもってするものであるのに対し、原判決が、訴因変更手続を経ることなく、「被告人はHが満一八年に満たない児童であるやもしれぬことを知りながら、敢えて」と未必的故意をもってする犯罪事実を認定したのは、審判の請求を受けた事件について判決をせず、審判の請求を受けない事件について判決をした刑事訴訟法第三七八条第三号に該当する違法が存するというものである、と主張し、同第三の二は、若し、右の如く原裁判所が訴因変更の手続をとることなく未必の故意を認定したことが、控訴趣意第一に主張したように刑事訴訟法第三七八条第三号に該当しないものであるならば、これは判決に影響をおよぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反のあった場合に該当する、と主張するものである。

そこで、記録について調査すると、被告人の行為の相手方児童が一八才未満であったことについての被告人の認識に関し、確定的犯意による犯行すなわち「満一八歳に満たない児童であることを知りながら……児童に淫行をさせる行為をしたもの」として公訴が提起されたのに対し、原判決がこれを未必的故意による犯行すなわち「満一八歳に満たない児童であるやもしれぬことを知りながら、敢えて……児童に淫行をさせたもの」として認定し、その間、訴因変更の手続がとられていないことは所論主張のとおりである。しかしながら、右のように同一の犯罪構成要件に属する行為の範囲内で確定的故意の起訴に対し未必的故意を認定するのは、所論のように「審判の請求を受けた事件について判決をせず、又は審判の請求を受けない事件について判決をしたこと」に該らないし、またこれにつき訴因変更の手続を要するものではないと解すべきであるから、原判決が刑事訴訟法第三七八条第三号にふれ又は同法第三七九条にいわゆる訴訟手続に法令の違反があるものと主張する所論は採用することができない。右各論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意第二は、原判決は前記のとおり未必的故意による本件罪となるべき事実を認定しているのに、その証拠として、被告人に相手の年令が一八才未満であったとの未必的認識がありながらあえて本件行為におよんだことを証明するものを掲げていないのは、判決の理由にくいちがいがある場合にあたる、というものである。

しかしながら、原判示Hの年令に関する被告人の認識に関しては、原判決が証拠として掲げる被告人の司法警察員に対する四通の供述調書中、昭和四七年六月三日付のものに、「その男は一八才と答えたが、目的は年令ではなかった。」「本人が答えた一八才か、あるいはこれより下かも知れないとは思った。」との趣旨の供述記載があり、そして被告人が前記児童に対し原判示の行為におよんだこと自体は、被告人も争わず、また原判決の掲げるその余の各証拠に照らし明らかなところであって、被告人の前記のような認識と本件行為に及んだ事実とを総合すれば、原判決摘示のとおり、「被告人は……同人(H)が満一八歳に満たない児童であるやも知れぬことを知りながら、敢えて…淫行をさせたものである」と認定することも、本件の場合における具体的妥当性はともかく、理論的には一応可能であるから、原判示罪となるべき事実と、その掲げている証拠との間にくいちがいはない。従って、これに対し所論のように判決の理由にくいちがいがあるといって非難するのは当らない。論旨は理由がない。

控訴趣意第三の一は、要するところ、原判決が証拠として掲げている、被告人の司法警察員に対する供述調書(四通)および検察官に対する供述調書は、特に本件相手方の年令の認識につき、被告人の供述を正確に録取したものでなく、かつその供述に任意性もないのに、原裁判所が弁護人の異議を斥け、これを証拠として採用したことは、判決に影響をおよぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反である、というものである。

そこで、記録に徴し、所論の詳しく主張する諸点について検討してみると、

(1)  原審第三回公判調書に記載されている証人中野條達(被告人を取り調べ、四通の調書を作成した警察官)の供述は、所論の非難するように、同人が本件について、罰金で済むと言ったことはなく、むしろ被疑者がたかをくくっている様子であったので、軽いといっておいて後でとやかく言われるといやだから、取調の初めの段階で、一般に児童福祉法違反の事件はかえって厳しいものであることを知らせるために、罪が重く、罰金では済まされないことで起訴は免れないものである旨を告げ、(因みに捜査官が場合に応じ被疑者に対して罪の重いことを告知したとしても不思議ではなく、所論のようにこれを通常考えられないことと決めつけるわけにはいかない)例えば、長い間、自分の支配下において子供を使用している場合には、過失で年令を知らなくとも罰されるといい、また高校売春の事例をあげて、いろんな人が証人に呼ばれ、奥さんも呼ばれたとの話をしたものであって、相手方児童の年令について被疑者の認識を尋ねている際にこれらの話をしたのではないとの趣旨であり、これとその余の証拠とを総合してみれば、同証人が取調に際し、被告人を強制し、または誘導して供述をさせたとか、被告人がその意に反して同証人の言うがままに供述したとか、あるいは同証人が被告人の述べないことを調書に記載したとか、さらには被告人が内容は承服しがたいのに調書に署名指印したのではないかとの疑は認められず、従って同証人の録取した被告人の供述調書中供述記載の正確性、あるいはその供述の任意性に疑があるものということはできない。また、所論は、前記原審第三回公判において被告人質問中、証人として尋問予定の前記中野條達が在廷していたことをとらえて、これを非難する(おそらくはその証言の信用性に関してと思われる)が、所論引用の刑事訴訟規則第一二三条第二項の規定は、複数の証人相互の場合に関するものであり、なお、被告人の供述から右中野の在廷が判明したのは被告人に対する質問が始まってまだ間のない時点であるのに、弁護人が右中野の退廷方を裁判所に求めた形跡のないことからしても、弁護人がその在廷を特に幣害があるものとは考えていなかったことが窺われる。そして、同証人は、弁護人が被告人の供述調書の任意性を争っているので、その点につき証言させるべく、当日検察官が在廷させたもので、その聞かれる事項をすでに詳知していたものと考えられるのであって、被告人の法廷における供述を聴いたことがその証言に不当な影響を及ぼしたものとも認められない。さらに、所論指摘の、同証人が、本件を捜査中、被告人に依頼されて、その自宅にたいしたことはないからと電話したことも、所論のように同証人が被告人に対し罰金で済むといったことがあるとの裏付になるものとは解されない。結局、これらの所論につき検討しても、右中野條達作成にかかる被告人の司法警察員に対する供述調書四通の正確性及び任意性に関する前記結論を左右するに足りない。

(2)  同じく原審第四回公判調書中証人益子康男(検察官が被告人を取調べた際の立会検察事務官)の供述記載によっても、取調検察官が「事件にしようと思えば事件にできる。たいしたことがなく済ませようと思えば済まされる。」と被告人に告げ、これにより、被告人をして、実際に供述したことと調書に記載された供述が喰い違うことを強硬に主張するにおよばないものと考えさせ、その結果、供述調書に署名指印させたものであるとの所論主張のような事実があったのではないかとの疑も認められないし、その他被告人の供述が強制、誘導等によりなされた任意性のないものではないかとの疑も認められない。同証人の供述内容が被告人の取調時の状況につき漠然としている点が多いのは、寧ろ当時特殊な取調状況がなかったことを窺わせるし、「被告人の口が重く、暗い感じでポツポツ話していた。一寸口ごたえの感はあった。」との同証人の印象は、取調官が種種と尋ねたのに対し、被告人がむしろ、迎合的でなく、考えながら、答えていたことを示すものとも解されるのである。所論主張の、送致にかかる被疑事実の読聞けが検察官面前調書に記載されていないからといって必らずしも読聞けの事実がなかったとは断じ難いのみならず、仮りに右読聞けの事実がなく、従って読聞けをした記憶がある旨の同証人の供述がその思違によるものであるとしても、その一事により直ちに同証人の供述全般の信用性が著しく減殺されるわけではない。また、所論主張のH(本件相手児童)の検察官に対する供述調書は、被告人の検察官調書が同年六月一〇日付であるのに対し、同年六月九日付となっているが、その取調場所は遠隔地の会津若松市であり、他方記録添付の勾留状によると、検察官の請求により、参考人の取調未了等の理由によって、同年六月一三日、一〇日間の勾留延長の処分がされているところからみると、検察官が被告人を取り調べた同年六月一〇日当時は、論旨主張の被疑事実中の強制わいせつの告訴取消は、むしろ未だ検察官の手許には到達していなかったのではないかと推測されるのであるが、仮りに検察官が右告訴取消の事実を知らされていたとしても、弁護人の「想像するに難くない」とする如く検察官が業を煮やして「事件にしようと思えばできるんだ」とその裁量権をちらつかせながら取調を行なったものとは認められない。結局、同証人の供述に、その信用性を害なう程の矛盾は認められず、これと他の証拠とを総合すれば、被告人の検察官に対する供述調書に、被告人の述べていないことが記載されているとか、或いは、そこに記載されている被告人の供述の任意性に疑があるものとは認められない。

(3)  原裁判所が、弁護人の異議を却下し、これら被告人の供述に任意性ありとし、右各供述調書を証拠として採用した際に、その理由として、各調書の記載が前後矛盾しないことを挙げたのは、右各調書の作成経過に照らし、当然の事理であり、これをもってその証拠能力を肯定する理由としたのは不当である、との所論については、記録上(一四九丁)原裁判所がさような理由により任意性を認めて、異議を却下したものとは認められないので、その前提を欠くものというべく、たやすく採用することができない。

その他所論にかんがみ記録を精査しても、原裁判所が被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書を証拠として採用したことをもって、その訴訟手続に法令の違反があったものと認めるべき事情は存在しないので、論旨は理由がない。

控訴趣意第五は、被告人は、本件当時、原判示相手方の年令が一八才未満であることについて、確定的にせよ、未必的にせよ、その認識を欠いていたのであるから、被告人は相手方が満一八才に満たない児童であるやもしれぬことを知りながらとの趣旨の事実を認定した原判決には、判決に影響をおよぼすことの明らかな事実の誤認がある、というものである。

ところで、原判決は、相手方児童の年令についての被告人の認識については、被告人の検察官に対する供述調書および司法警察員に対する昭和四七年六月一三日付供述調書に現われている「相手を一六、七才と思った」旨の各供述並びに司法警察員に対する同年六月三日付供述調書に現われている「本人が答えた一八才か、あるいはこれより下かも知れないとは思った」旨の供述等を総合して、結局原判示のような未必的認識を認定したものと認められるのであるが、所論にかんがみて記録を調査してみると、≪証拠省略≫を総合すれば、被告人が本件犯行に先立ち相手方児童に初めて出会った際に年令を尋ねたところ同人は一八才と答えたこと、当時被告人は相手の年令にたいした関心を有していなかったこと、相手方児童は当時身長一六六センチメートル、体重五八キログラム程度の体格であってかねて先輩からも比較的年長に見られる傾向があったこと等の事実が明らかであり、さらに、当時の被告人と相手方児童との出会いの場所および犯行現場付近の暗さ、被告人の司法警察員に対する昭和四七年六月九日付供述調書に現われているように、被告人が当時飲酒していた事実、或いは所論の如く一般に高校生年代には心身の発達、成熟の度合が各個人によって異なり、しかも個人差が大きいので、その年令を適確に判断し難い場合があること、等をも考慮に加えると、本件犯行当時、相手方児童の年令が一八才未満であるという点につき、被告人には、確定的にはもちろん、未必的にもせよ認識がなかったのではないかとの疑を払拭することができない。記録に編綴されている右児童の写真(写真作成報告書添付のもの)によっても、必ずしも同人は一見明らかに一八才未満と見られるとは言いきることはできないのである。被告人は、犯行直後、逮捕警察官から相手方児童の年令を言われ、改めて同人を観察して、その一八才未満であることを納得したものとも推測され、その後の各取調に際しても、右の納得したところに従い右年令の認識の点についてもその供述をしたのではないかという疑いがあり、従って、前記各供述調書に記載されている、右年令に関し確定的或いは未必的認識があったかの如き被告人の供述も、必らずしも本件犯行当時のことと各取調当時のこととを明確に意識しながら自白したものと、全面的に信用するには、なお躊躇を感じさせるものがある。そして本件においては被告人の右認識の存在を立証するに足る証拠は他に存在しないのであるから、結局のところ犯罪の証明が十分でないものというべく、これを有罪と認定した原判決は、この点において本件証拠に関する総合的評価を誤まり事実を誤認したものといわなければならない。論旨は理由がある。

以上の次第であるから、法令適用の誤を主張する控訴趣意第四の論旨について判断するまでもなく、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により、さらに次のとおり判決する。

本件公訴事実については前説示のとおり犯罪の証明がないので、刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪を言い渡すこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 吉田信孝 判事 大平要 粕谷俊治)

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